テーマ 名古屋都市論 江戸から現代まで
-大正・昭和のまちづくり史を中心に-
講 師 名古屋学院大学 経済学部 教授
都市研究所スペーシア 顧問 井澤 知旦 氏
開催日 平成26年3月11日(火)
会場 料亭 蔦茂
■名古屋のまちづくりに貢献した人たち
【区画整理の石川栄耀】
名古屋のまちづくり史を見ていくと、大正末期から昭和の初めにかけて、名古屋の都市計画としてグランドデザイン
を確立したのが石川栄耀氏です。
彼は、1893年に生まれ、1955年に62歳で亡くなられました。
歌舞伎町の新宿西口広場とか、名前を歌舞伎町としたのも石川さんです。
内務省都市計画地方委員会の技師として名古屋地方委員会に赴任するということで、27歳から40歳のバリバリの
ときに名古屋で活動しました。
もともと彼自身は、イギリスの田園都市に理想のようなものを描いていました。
ニュータウンを作ったレイモンド・アンウィンという人との交流をする中で、名古屋にも、それを導入できないかと
いうことを考えていたのです。
彼は、「都市計画」を「社会に対する愛情」であり、また「都市計画に王道なし、ただ区画整理あるのみ」とも考えて
いました。
道路をちゃんと広げる、公園を造る、鉄道を敷設する、そのためには用地がいる。ただ、用地を個別買収していたら
どれだけ時間があっても足りません。
区画整理という「あるエリアの中でお互いに土地を出しあいましょう。そのかわり、あなたの持っている土地の価値が
何倍にもあがりますよ」というような考え方で地域のマネージメントをしていったのです。
経営として「まちづくり」を考えないと、長続きしない。
そういう考えのもと、名古屋での区画整理をひたすら進めていったのです。
区画整理の良さを広めるために、大名古屋土地博覧会をやったり、中川運河を造る、道路を整備するといったことも
やりました。
名古屋もデトロイトのように、自動車などの工業化を進めていく。整理した土地に、工場ができ、倉庫ができていく。
そういうことをやりながら都市計画の思想を売り込んでいったのです。
【戦災復興の田淵寿郎】
戦前の都市計画は、このようにして基盤を作っていったのですが、名古屋はモノづくりの都市だということで、戦時
中、徹底して空襲にあいます。
38回、被災面積3,850ヘクタール、主要市街地の半分は、焦土と化しました。
しかし、名古屋は、あるべき都市の姿は事前に検討されていました。
当時の地域で200万人という大都市を目指す。
そのために戦災復興の土地区画整理事業を3,452ヘクタールやってしまおうと考えた。
その中で道路と公園を整備するということなのですが、その代表的なのは100メートル道路である久屋大通、若宮大
通です。
278のお寺で、18万7千基の墓を移転する。普通に考えたら、とてもできないことも一気にやりました。
こういう構想で都市計画を進めてきたのが田淵寿郎氏です。
田淵さんは、1890年に生まれ、84歳に亡くなられました。
専門は河川で、内務省の名古屋土木出張所長をされた人です。
田淵さんの復興計画の理念の実現として、
・全体のバランスを取りながら都市計画をする
・8m以上の道路整備で、碁盤割地域では20m,15mで整備する
・市内の通過鉄道は立体交差にする
・小学校と公園を一体化する
・防災の視点から中心部を100メートル道路で四分割する
・中心部の墓地を集約移転する
・高速鉄道を整備する
など、全部で「9つの方針」があります。
大いなる田舎から出発して、名古屋は、昭和30年代、どん
どん戦災復興をやっていきましたので「青年都市」と言わ
れていました。
【都市再開発街づくりの三輪田春男】
あまり知られていませんが、30年代に名古屋のまちづくりで貢献した3人目の人が三輪田春男氏です。
栄東の都市再開発に奮闘した布団屋の店主です。
活動の中で、「街づくり」という言葉を全国で初めて使ったのが三輪田さんです。
都市再開発といった難しい言葉を、市民にわかりやすい言葉を使ってまちづくりを広めていったのです。
残念なことに、まちづくりそのものは、三輪田さんの想いを実現するところまではいきませんでした。
住民の思いは高かったのですが、実現のための仕組みは未整備で、また仕組みを動かす担い手が少なく、一人でやれ
ることに限界があったのです。
ただ、40年、50年前にそれをやろうとしていたところに、知る人ぞ知るといった存在といえます。
■名古屋発展の要因
名古屋400年の発展を考えると「5つのエポック」あったと思います。
①名古屋の築城のときに、全国から有能な職人が集まってきた。それが名古屋のものづくりの礎を築いた。
②宗春は、将軍吉宗による質素倹約策に対抗して、消費拡大・規制緩和を図り、全国から職人や芸人が集まってきた。
それによって「ものづくり名古屋」と「芸どころ名古屋」という大基礎をこの時代に築いた。
③明治に入って、専売特許条例ができて、全国から、一旗揚げようといろんな人がものづくりの名古屋に集まってきた。
④軍需産業の技術がいろんな産業、特に加工組立産業の分野に伝播していった。
⑤名古屋は戦前からイベントに力をいれていた。そのことで、いろんな情報が名古屋に集まってくることになった。
「人が集まる」「技術が蓄積される」「情報が集まる」といったことを、いろんな形で仕掛けていった結果が、名古
屋の発展の要因になっているといえます。
■名古屋のイメージ形成
週刊誌やいろんな雑誌の中で、過去、名古屋はどういうふうに扱われてきたかのか。
江戸時代は、7代尾張藩主宗春以降、よそ者藩主ということで、排他的で失敗を恐れるといった空気が強かったとい
われています。
明治以降、産業都市化をしていくわけですが、排他性、閉鎖性、この気風は引きずっています。
1950年代は、戦災復興で立ち上がる青年都市名古屋ということで、理想都市のひとつにようにいわれるようになりま
した。
1960年代は工業都市化がどんどんと進んでいき、商業都市と違って、環境が悪いイメージが形成されていきました。
1970年代は、名古屋はモンロー主義の典型的なイメージがあり、景気が良くなると批判され、悪くなると再評価される、
そういうふうに見られました。
1980年代は、名古屋のバロディ化やオリンピック誘致失敗など、名古屋バッシングあり。
1990年代は、デザイン博効果で評価が高まる一方で、のぞみの名古屋とばしなどで今一度揶揄されました。
こういうふうに見ていくと、名古屋というのは、東京から見ると気になって仕方なく、無視できない存在なんだろ
うと思います。だからこそ、バッシングされたりするわけです。
2000年代になると、トヨタが元気になったものですから、無視できないどころか、注目される都市になってきて今日
に至っています。
これからのまちづくりも、名古屋の発展要因やイメージ展開を見据えながら進めていってはどうかと思います。