2010年4月例会の内容

■ 名古屋経営研究会通信 2010/4/30
■■ 4月例会 講演レポート
■■   テーマ  「名古屋のDNA」
■■■■ 講師  名古屋市代表監査委員、元名古屋市交通局長
■■■■      吉井 信雄 氏
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                開催日 平成22年4月15日(木)
                 会場  名古屋クレストンホテル9F宴会場
■■名古屋の都市形成を読み解くキーワード■■
まず地形を知ることが大切です。
土地の状況は地名によってイメージされます。
鳴海、元塩町などは、昔、海でした。
熱田の「宮の渡し」は宮~桑名までの海の道のスタートライン。
鍋屋町、矢場町、鉄砲町などは歴史を髣髴とさせる地名です。
御器所というのは「オン・カワラケ・ドコロ」といいます。
オン・カワラケというのは、熱田神宮の社殿に捧げる器です。
その貴重な器を作っていたということで「御器所」というわけです。
1610年、清洲越しによって、7万人が大移動をしました。
神社が3つ、寺院が100、五条橋、三ツ蔵など、
約7年かかって竃の灰まで移動しました。
神社や寺院を動かしたという清洲越しの経験や
慶長年間の都市計画が
戦後の戦災復興都市計画で墓地を平和公園に集結した
街づくりに活かされていると考えられます。
家康の慶長年間の都市計画の特徴としては、
非常に効率的で、経済的、合理的な町を造っていくという
思想に裏付けられています。
ピュアゾーニングといって
武士とか商人とか、寺社を明確に区別する。
同じ商人の中でも、はっきりと職種によって分ける。
寺社を街道沿いの城下から離れたところに、
敷地を大きく与えて外へ出す。
そうすることによって、
いざというときの兵站廠(へいたんしょう)にしているのです。
名古屋は世界一の区画整理都市です。
区画整理というのは、
土地を交換することによって整然とした街並みをつくる手法です。
区画整理(それ以前の耕地整理を含めて)が行われた面積は、
現在の市域面積の約55%に相当します。
世界で人口が200万以上の大都市で、
これだけの規模で区画整理をしている街は名古屋だけです。
戦災復興も区画整理でやっています。
名古屋は軍需産業の一大中心地でしたので、
東京に次いで、空爆回数が第2位なのです。
そんな名古屋の復興都市計画として田淵プランがありますが、
慶長年間の都市計画がベースになっています。
当時、都心には墓がたくさんありました。
道路を拡幅しようとすると墓がじゃまになってしまう。
そこで考えたのが、平和公園への墓地一斉移転です。
300の寺で18万基を移転するというのはすごいことです。
結果として、整然とした街になりました。
広幅員道路ですから、車がどんどん入ってきて、
公共交通と自動車交通の比率が3:7となってしまいました。
東京は8:2です。
車の保有台数は、名古屋は1世帯に1台、
東京、大阪は2世帯に1台。
倍ですね
大変機能的、効率的な街になったといえます。
東海道線は明治22年開通ですが、
当初の構想としては、ほとんど中山道幹線に決まっていました。
その理由としては、
当時の戦争というのは戦艦ですから、
艦砲射撃にあうと物資調達のための鉄道網が寸断される
ということで陸軍がものすごく反対したからです。
ただそうなると、
多治見から岐阜に抜けて、大垣に行きますので、
名古屋飛ばしになってしまう。
そこで武豊から熱田までの武豊線を
大垣か、垂井まで通してつなごうとした。
ところがそれが難しかったため、
あきらめ、東海道線ルートに変更するよう
当時の吉田区長が国に要望し実現したという経緯があります。
東海道線の認可の際駅を名古屋にしました。
当時は熱田が中心だったため、名古屋という駅はありません。
吉田区長は広小路を拡幅し西に延長し
そこに駅をつくることを考えました。
それが笹島です。
そこで、
笹島から長者町までの道路拡幅をすることになったのです。
もともと広小路のいわれは、
1660年の万治の大火によって、
碁盤割地区のほとんどを焼失したことに懲りて、
火除け地として3間の道を15間の道に広げたことによります。
3間の狭い道を広げたので、
「広小路」という名前になったのです。
これをさらに、笹島まで伸ばすことで
名古屋が西に発展しました。
明治40年、
遠浅だった港を浚渫(しゅんせつ)し、築港しました。
このとき国の補助金がもらえず、単独事業。
歳入の2倍近い負担でした。
そこで、当時、報知新聞社が企画した
「巡航博覧会」というのがあり、
苦労して入港させた「ろせった丸」を市民に見せることで、
熱田が太平洋からアメリカにつながっているんだな
という実感を市民にしてもらった。
それによって、築港の機運が盛り上がったのです。
また、築港と共に、
名古屋が熱田を合併し、
「宮」と「城」の結合が実現し、工業化が進むことになりました。
明治43年、
第10回関西府県連合共進会が鶴舞公園で開催されました。
また、昭和12年、汎太平洋平和博覧会が開催。
会場は、現在の港区役所のエリア50ha。
沼地をサンドポンプで1mかさ上げ。
約90haを埋め立てて、
跡地は工業地域に指定し、住友軽金属などの工場を誘致。
時計、陶磁器などの
軽工業から航空機などの重工業に移行するきっかけになりました。
戦時色が強い中で、テーマが「平和」というのは画期的でした。
平成元年のデザイン博は、
見せることによって市民のマインドを変えていくという発想です。
「都市の質、景観を高める」、
「デザインによって付加価値をつけることで産業を振興していく」
という2つの狙いがありました。
これをきっかけにインフラを徹底的に整備しています。
例えば、
今の金山総合駅や国際会議場、
ナディアパーク、名古屋水族館などは、このときにできています。
■■名古屋の特性と個性化戦略■■
名古屋の立地上の優位性としては、
非常に豊かな土地柄であるといえます。
豊かということは、
官民関係が良好だということです。
百姓一揆が少ない。
なぜ少ないかというと、税率が低いからです。
江戸時代の全国の平均は、
五公五民だったのが、四公六民、
場合によっては三公七民くらいですから
取立てが緩やかだったのです。
ただ、それが逆に官主導型になる。
祭りなども官主導ですからおもしろくない。
また、豊かであることが、
ハングリー精神に欠け、情報感度が鈍いといえます。
そのためには、
高感度情報を発信しないといけないし、
そのためには広域的な国際交流をしないといけないのです。
一方、名古屋がニュータウンであったことで
プランナーの意思が明快。
プランナーがこういう街にしようと思えば、
そういうふうにできるわけです。
だから、整然とした町割になるのです。
その典型が直角直交の名古屋城です。
整然とした町割で機能的・効率的な町になっています。
これほど都市基盤がしっかりできている町は他にありません。
ただ、整然としていることは、
変化がなく、魅力が乏しいといえます。
もっとエキサイティングな町にしていくことがこれからの課題です。
そのためには、
猥雑さや意外性、ヴェネチアのようなラバレンスの要素が必要。
もう一回、住みやすさということを再構築し、
その上に、エキサイティングな要素がつけば、
名古屋は住みやすくて、
魅力のある町になるのではないかと思います。