201310

10月例会 講演レポート 
   テーマ 安倍政権の命運
   講師  元毎日新聞社 常務  
       慶應大学マスメディア・コミュニケーション研究所講師
       河内 孝 氏
 NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成25年10月4日(金)   
          会場  料亭 蔦茂   
■東京オリンピック開催がもたらす変化
去年12月に安倍さんが自民党総裁になり、
衆議院選で自民党が政権をとりました。
この時、安倍さんと側近たちが考えたのは6年コースです。
ところが東京オリンピック開催決定ということで、
考えていた政権スケジュールが微妙に変わりつつあります。
簡単にいうと6年コースから7年コースに変わっている。
政局日程でいくと、2015年4月に統一地方選があります。
9月に自民党総裁選挙。
ここで、実績や支持率によりますが、
安倍再選ということになると2018年9月まで任期が
あるわけです。
そこで花道というのが6年コースだ。
それまでに後継者を決めて、
仕事を終わらせるつもりだったのですが、
オリンピックが決まった。
この時点で、安倍さんは、まだ64歳。
どうせならオリンピックまではやらせたいよねと。
「アンダー・コントロール」で
オリンピックを東京へ持ってきたのは安倍なのだから、
いいじゃないかという3選論が、
側近あたりからポツポツ出始めています。
今後のスケジュールとしては19年夏に参議院の任期がきます。
ここでもう一度ダブル選挙をやるかという話がありますが、
ダブル選挙というのは邪道なのです。
これを連続してやれるか。
ただ、2020年8月は東京五輪で、
20年6月に衆議院の任期が満了になりますから、
常識的にみれば、19年中に衆議院の選挙も片付けておきたい。
そうすると、
19年のダブル選挙という話が、またでてくるかもしれません。
 
こうやって13年から20年までの7年間を検討してみると、
全国レベルの選挙がないのは来年15年と17年しかない
ということがおわかりになるかと思います。
それは何を意味しているのか?
選挙の年というのは、憲法改正の国民投票だとか、
大きな政策変更をして、国論を二分する政治決定は、
しにくいわけです。
だから一見、安倍さんにとって、
長い3年二期、6年の長期政権であるように見えるけれど
実は政治的にやりたいことをやる、という年は
来年と17年しかないわけです。
17年というのは再選されることを前提にしていますから、
明らかにフリーハンドを持った年というのは来年しかない。
それを前提にして、
予算があがる4月以降、来年一杯は、
集団的自衛権とか、自衛隊法とか、関係法令の改正をしたい。
そこの筋道がつけば、憲法改正というものに着手して、
2015年の統一地方選、自民党総裁選に入って行きたいな、
というふうに考えていたと思います
それが7年コースということを射程にいれると、
もう少し政策選択のスパンが伸びる。
憲法改正とかは、すぐではなくていいのでは。
長期政権を考えると、経済優先、生活関連重点の期間を、
もう半年くらい長引かせてもいいんじゃないか
という流れが出てきている。
では、二期6年+1年で
一体、いつ、何を、どうやるつもりなのか?
2014年は、防衛計画の大綱の見直しが行われます。
今までは攻められた段階で撃退する。
敵の本拠地やミサイル基地をたたくのは、アメリカだ
という分担だったわけですが、
防衛のために先制攻撃もありうる、
と踏み込んだ自衛隊作りが始まっていくのではないか
と思います。
具体的には、島を取られたら取り返すという、
海兵隊型の揚陸作戦能力などを持つ。
これについて国会では
北朝鮮を意識しているんだというでしょうが、
実際の狙いは中国です。
また、日米の防衛ガイドラインの見直し。
今までの路線でいうと、極東で有事があった場合に、
日本領海、及びそれに隣接したところで、日米共同行動する
ということだったのですが、
これがもう少し、より一般的な軍事同盟、
つまりアメリカを攻められたら、日本が共同対処する行動に
踏み込むような内容になっていくでしょう。
これらは、ちょっとした骨折り仕事です。
■安倍政権のとってのツキとは、落とし穴とは
 
安倍政権も1年、経ちました。
安倍政権にどんなツキがあって、落とし穴が待ち受けているか?
ツキとしては、
まず、政治ジャーナリズムの能力低下があります。
しばらく1年ごとに政権が変わったために、
多くの記者が長期政権を知らない。
実は、長期政権のノウハウというものがあるのですが、
メディアの方にそれを監視するノウハウがないから
結局、やりたいようにやられてしまうのです。
低減税率というエサで新聞社を味方につけたことも、
ツキのうちでしょう。
一方、最大のリスクは、中国、韓国との関係です。
この問題について、打開のめどは立ってない。
何故かというと、
日、中、韓、米、露という五カ国の構図が変わったからです。
少し前までは、北朝鮮が韓国を攻めた場合、
韓国にとって用心棒はアメリカしかなかった。
だからアメリカの言うことを聞くしかなかった。
アメリカの意向もあって
日本とは、ケンカしたいけれど我慢してきた、
というのが日韓関係の政治的な構図だったわけです。
ところが中韓関係が大きく変わった。
いまや韓国の最大の輸出国は、中国ですし、
進出韓国企業も圧倒的に中国が多い。
今、中韓関係は、とても良いでのす。
そうなると日本との関係は軽くなってしまうわけです。
神戸大学の先生によると、
「中国人にとって日本人が嫌いだ」という曲線と、
「韓国人にとって日本人が嫌いだ」という曲線がある。
この2つの曲線は70年代から全く変わっていないのです。
6割くらいは常に日本が嫌い。
ただ、中国の貿易に日本が占める比率が非常に高いときは、
それが表面化しない。
韓国も同じです。
日本への経済依存関係が強い時、
米国の韓国への影響が強い時は、表に出ないわけです。
つまり、再び韓国の米国依存が高まり、
中国の対日経済依存が高まるまで改善はしないということです。
当面は、我慢するしかない。
前回からの教訓に学んでいるのもツキの内です。
前回は、「お友達内閣批判」というのがありました。
その反省で、人事上は結構上手くやっています。
「ぶら下がり取材」というのを辞めたのもそうですね。
テレビで10秒くらいで国民にぱっとメッセージを伝える
というのは、小泉さんの感性の人ならできますが、
安倍さんは、できない。
それが分かったからやらない。
その代わり、記者会見をするときは、ちゃんと準備してやる。
また安倍政権には、
「打って出るな、敵失を待て」という考えがあります。
総裁選で二位だった彼が勝てたのも
石原さんの敵失によるものです。
12月総選挙、6月参議院選挙、
これは民主党が負けたというよりも自壊したわけです。
そうすると潮目はいつ変わるのか。
国民は、来年の増税が始まったあたりで、なんとなく目覚めて、
これはヤバイぞ、安倍にコントロールを任せて大丈夫か、
という声が支持率に反映するのではないか。
そこらから変化が始まるような気がします。

201309

9月例会 講演レポート 
   テーマ ビジネス・スキルをあげるために、
       「オン」の時間にこそ歌舞伎を見よう!
   講師  歌舞伎ソムリエ おくだ健太郎氏
 NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成25年9月6日(金)   
          会場  ローズコートホテル   
■ちょっと意外な歌舞伎の世界
歌舞伎には「顔見世」という言葉があります。
江戸時代から使われている専門用語です。
江戸時代の年度始めというのは、前年の11月でした。
そのときには、たくさんのスターが揃います。
その年度始めの公演を「顔見世」といっていたのです。
江戸には幕府が公認する劇場が3つありました。
中村座、市村座、森田座です。
この3つの劇場が、町中でしのぎを削っていたのです。
森田座は、歌舞伎座のある東銀座の辺り。
中村座は、もともと日本橋辺りにあって、
それが人形町に移りました。
市村座も中村座の近くでした。
なぜ、年度始めが11月だったかのか?
現在、歌舞伎興行というのは、
松竹という興行会社が管轄しています。
芸能界でいえばプロダクションのようなものです。
ところが、
江戸時代における歌舞伎役者さんは、
今ほど近代的なショービジネスが確立されている
わけではありません。
役者さん、一人一人、
それぞれの家が個人事業主のようなものだったのです。
ですから、役者さんは、一年ごとに、
来年一年間をどこの芝居小屋と契約するかを考えながら、
中村座、市村座、森田座のどこかと契約するわけです。
毎年、毎年、契約更新していくというのが、
江戸の芝居なのです。
つまり、毎年、役者さんの顔ぶれが変わるわけです。
顔見世芝居を観ることで、
向こう一年は、こんなスターが揃うんだなとか
どういう芝居になるのかなというようなことを想像し、
それが歌舞伎ファンの中で話題になったりするわけです。
11月というのは旧暦ですから、
気候としては今の12月、1月くらいです。
そろそろ年の瀬が気になる頃です。
昔は三十日で借金がちゃんとチャラになっているかどうかを
調べたりして、とても忙しい時期です。
世間では芝居を観ている場合ではない。
そういうところにあえて顔見世芝居をして
観客を呼ぼうとする。
歌舞伎ショービジネスとしての
経営戦略を感じられるのが11月といえます。
良い意味で、
商売っ気のある、活気ある業界だったといえます。
■商人の集まり「歌舞伎」
その他にも歌舞伎には
活気のある現象がたくさんあります。
それが今にも受け継げられています。
「掛け声」
それぞれの主だった役者さんには
「○○屋」という屋号がついています。
例えば、
福助さん、橋之助さんは「成駒屋」
坂東彌十郎さんは「大和屋」といいます。
芝居というのは、
劇場につめかけた観客に対して、
役者さんが自分たちの芝居、演技、芸を売る
観客は、それを買う
そこには、普段のお店で、
売り手と買い手のやりとりがあるように、
役者と観客との間でやりとりをする。
そのやりとりで「良かったよっ!」という意思表示が、
「○○屋!」という掛け声なのです。
年間スケジュールとして、
顔見世が11月からスタートして12月半ばくらいまで
あります。
年が明けて1月から、
初春の芝居ということで、あらためて華々しくやります。
昔の歌舞伎というのはお正月が2回あるのです。
昔の歌舞伎公演は、
1月の芝居を2月の半ばまでやっています。
1ヶ月半スパンです。
半月おいて3月。
そこから4月半ばまでやって、最後に5月。
5月だけは短くて、5月27日まで。
11月の顔見世から、5月27日のゴールに向かって、
江戸であれば3つの芝居小屋が、競っているのです。
5月28日は、曽我兄弟の「仇討ちの日」です。
赤ちゃんのときにお父さんを殺されてしまった曽我兄弟。
お父さんの仇を、18年後、大人になって見事果たしたのです。
ただ、そのとき
兄弟も討死してしまったという悲劇のヒーローとして、
毎年5月28日「仇討ちの日」とされています。
江戸の芝居は、
3つの劇場とも、毎年、毎年、主役は曽我兄弟です。
同じ曽我兄弟という演目で、
3つの劇場が競争するのを楽しむのが江戸の歌舞伎です。
プロ野球に、
それぞれ観客が応援しているチームがあるように、
あるいは、応援している選手がいるように、
歌舞伎にも、それぞれ応援している劇場があって、
観客同士のやりとりがある。
そういう心理が、「○○屋!」という
掛け声にもなったのではないかと思います。
今度、お芝居をよく観ていてください。
芝居の中で誰かが大事なことをし始めたとき、
他の人はピタッと動きが止まっています。
しばらくやることがない登場人物であれば、
その場にはいるのですが、後ろを向いていたりします。
他の人の商売のジャマをしない。
一事が万事、
役者さんが芸をしている、演技をしているというのは、
ものを売り買いしている商人といえます。
歌舞伎というのは
マーケット原理が働いている世界なんだなと、
感じていただけたらと思います。

201307

7月例会 講演レポート 
   テーマ「初対面の相手の心を一瞬で開く方法」
   講師 フリーアナウンサー/パーソナルプロデューサー
      生田(いくた)サリー氏
 NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成25年7月11日(木)   
          会場  料亭 蔦茂   
■アメリカで学んだ「相手の心を一瞬で開く方法」
ワールドプレミアという、
世界で一番最初に映画を披露するメディア向けの
上映会があります。
毎回、世界中のメディア関係者が2000人くらい集まって、
3日間くらい取材をするのです。
私は、日本でアナウンサーとして活動した後、
1997年からニューヨークに10年暮らし、
テレビの司会やリポートをさせて頂いていました。
数々のハリウッド映画のインタビューもさせていただきました。
中学時代から英語は好きで、その後も英語を学び続け、
なんとなく話せるような気分で行ったわけですが、
全く私の英語が通用しませんでした。
ニューヨークには世界中の人が集まっている。
私たちの英語は、オーストラリア人には聞き取れないし、
反対にオーストラリアの英語は、私たちには聞き取れない。
アメリカの少しブロークンな感じの英語は、
聞き取るのに苦労しました。
当時、アメリカの俳優学校で発音矯正のクラスも受講し、
1つ1つのアルファベットをどういうふうに発音するか
ということも勉強しました。
そんなアメリカの生活の中で感じたことがあります。
一般的に日本の方はシャイで、
自分の感情を表に出すことが苦手です。
でも、それでは相手に理解されないことも多くあるのです。
反対にアメリカでは、どこでも、すぐに話しかけてくる。
目が合うとにっこり笑い、
道を歩いていても、すぐに靴や服を褒めてくれる。
信号待ちをしているときや、
ビルのエレベータで一緒になっても、
「あなたのそのコートいいね。どこで買ったの?」と
声をかけてくれたりします。
自分の思っていることを素直に伝える。
話しかけるのが恥ずかしいと思わずに、
思っていることを素直に自分から話しかけないと
人とのコミュニケーションはスタートしないんだなと感じました。
相手の心を一瞬で開くために一番大切なものは、
自分から心を開くこと。
そのときの自分のテンションだったり、
自分の表情であったりします。
私は100%の笑顔で会うことを心がけていました。
コミュニケーションで大切なことは、
まず「笑顔でいる」こと。
次に、「自分から話しかける」ということです。
日本では、立場が偉くなってくると、
部下が挨拶をすると、自分も挨拶をするという
タイプの人がいらっしゃいます。
自分から心を開いて話しかけるということが、
コミュニケーションをする上で、
自分の人生の可能性をドンドン開いていくのです。
これは職場だけでなく、日頃の日常生活の中でも同じです。
自分から心を開いて話す。
そのためには「相手に伝わるように伝える」ことが大事です。
相手のことを褒めるということも、
コミュニケーションを円滑にします。
自分が相手のことを好意的に思っているよ、
ということが、ちゃんと伝わるように伝える。
女性同士の場合は、「あっ髪型、変えたね」とか、
「今日の洋服、ステキだね」といった話をする
きっかけがあります。
ところが、男性の場合、
ステキだなと思っても女性に対してはもちろん、
男性同士でも伝えあうことはほとんどありませんよね。
これが日本人のコミュニケーションの中で、
欠けていることじゃないかと思います。
会ってすぐに、相手の良いところを褒める。
自分が感じた相手の良いところを伝える。
これを日常的にやっていると、
コミュニケーションは劇的に変化していきます。
褒められると、つい、「いえいえ」と言ってしまう癖が
ついてしまっている人が多いですが
褒め言葉を素直に受け取ることが大事なのです。
今までインタビューをしてきて、
成功している人に「落ち込んだとき、悩んだ時には
どうするのですか?」と聞くと、
だいたいの人が「褒められる人のところに行く」と
おっしゃいます。
自分のことを認めて褒めてくれる人に、
皆会いたくなるものなのです。
自分のことを信じてくれているということがわかると、
自分もその相手におかえしをしてあげようと思えるようになる。
そこで人間のコミュニケーション能力が深まっていく。
褒めることを日常的にしていただきたいと思います。
褒められたら、素直に受け取る。
そして、今度は
いろんな人に褒められたときの幸せな気持ちを
おすそわけしていく。
そういうことをやっていくと
人間関係が豊かになっていくと思います。
■挑戦したいことを、挑戦したいときに、挑戦する
今、中学生や、大学生向けの講演で、
よく、「夢を持つことの大切さ」について
お話をさせていただきます。
アメリカは自分の年齢を全く気にしないで
やりたいことにトライする人が多い国です。
私がバレエレッスンなどに通っても、
60代のおばあさんが毎週来ていらっしゃるのです。
50代で、自分の子供が全員二十歳を超えたことをきっかけに、
アメリカに留学してこられた日本人の主婦の方も
いらっしゃいました。
何かをやりたいというと、
日本では、「何のためにやるの?」「ビジネスになるの?」
という人がいますが、
自分がやりたいことを、やりたいときに、
自分のタイミングとしてやっていくことが、
人生を楽しむ秘訣だと思います。
アメリカでは、
起業に就職で応募する際、年齢を聞かれることがありません。
性別や年齢などは制限されないのです。
年齢を気にせずに、挑戦したいことに挑戦できるというのが
アメリカでは可能性として開かれているのです。
2011年、2012年と
ドリームプラン・プレゼンテーションという
大人が堂々と夢を語るというイベントで
実行委員長をさせていただきました。
今年は8月18日に刈谷市で行われます。
それ以外に、去年、一昨年と
「女性のココロとカラダの健康を守るチャリティウォーク」の
実行委員長をさせていただきました。
私含め、スタッフも全員ボランティアです。
出会う人、一人一人を大切にする。
目の前の人、目の前の仕事を大切にするということが、
必ず未来につながっていくと思っています。
目の前の人に誠意を尽くし、
相手の心を開くということを続けていただき、
素敵なコミュニケーションをしていただきながら、
人生の可能性をどんどん開いていっていただきたいなと
思います。

201306

6月例会 講演レポート 
   テーマ「國酒プロジェクト
       ~東海『4』県とフランスが育てた
        経済政策決定プロセスの新潮流~」
   講師 名古屋大学教授 佐藤 宣之 氏
      前・内閣官房国家戦略室参事官
 NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成25年6月5日(水)   
          会場  札幌かに本家・栄中央店   
■私が名古屋にいる理由
私は「本物」の教授ではありません。
昨年8月、財務省から2年間の任期付きで
名古屋大学に出向することとなりました。
名古屋に住むのは初めて。
あえて名古屋との縁を探すと、
大学同級生には、その後職場の同期にもなった
古川元久代議士(旭丘高校出身)、
また「いつやるか、今でしょ!」でブレーク中の
林修先生(東海高校出身)がいます。
その古川代議士とはその後、
本日のテーマである「國酒プロジェクト」で
共に働くこととなりました。
元々国家公務員になる気が無かった私に
国家公務員試験受験を推奨(というよりは強要)したのも、
旭丘高校出身者でした。
こうやって振り返ると、
名古屋人は私の人生に実は大きな影響を
与えていたことになります。
■財務省というところ
中の人間が言うのも妙ですが、
財務省というとお堅いイメージが強いと思います。
確かに予算、税制等々財布を守るのが主な仕事なので、
仕事が堅いのは間違いありません。
でも職員一人一人には自由がある、
というか自由な発想、思考を常に求められます。
内外の情勢が激しく変化する中で、
先例踏襲の仕事で済むはずもなく、
どのような役職にあっても日々新たな課題を突き付けられ、
解決策を考えることが求められてきました。
大蔵省の人事担当者が内定学生24人を前に、
「大蔵省には多様な人材が求められる、
例えば頭が切れる者もぼんやりしている者も。」と
話していたのが思い出されます
(「ぼんやり・・」の下りの際に私を見ていた
 気がしてなりません)。
■平成の夏目漱石
入省3年目で国内研修、海外研修の
分かれ道に差し掛かりましたが、
幸運にも後者となり、イギリスに2年間留学しました。
実は生まれて初めての海外。
ヒースロー空港が見えた際、
「これが夏目漱石先生も見た光景か。」と
胸がワクワクしました。
授業は高度かつ勿論英語なので大変に辛かったのですが、
夏休み、冬休み、春休みは欧州を大周遊。
特に衝撃だったのは、
ドーバー海峡一つ隔てただけのフランスの
食事の美味しさでした。
ジャガイモにフォークを刺しただけで
「食べなくても美味しさが判る!」あの感動。
パリへの愛が芽生えるきっかけとなりました。
■29歳の税務署長
入省7年目、他の同期と共に全国の税務署長に転出。
私は静岡県の磐田税務署長となりました。
税務署長は様々な会合で
多くの方と会う機会が多いのですが、
私は知らない土地なので誰も知らず、
他方相手は若い税務署長の私のことを知っている
非対称性。
若さゆえの記憶力でカバーしようと思い、
山盛りの名刺を神経衰弱のように並べて
ひたすら頭に叩き込んだところ、
半年弱で署内で管内情勢に一番詳しくなった
ような気がします。
税務署の仕事の一つである酒類行政を通じて、
日本酒の魅力にも初めて触れ、地酒振興にも努力しました。
若い税務署長はその後世間の批判に晒され、
現在は一律の税務署長転出はなくなりましたが、
東京の住宅地育ちの私個人に関する限り、
この経験無くして今の自分もないし、
「國酒プロジェクト」も作り得なかったと確信しています。
■シンガポール
磐田税務署長からそのままシンガポール大使館へ出向。
シンガポールでは官民問わず意思決定が早く、
且つ建前よりも実利志向で、
私のメール即レス体質の礎となりました。
大使館員は公私含め会食の機会が多く、
”Camels can work without drinking three weeks,
while diplomats can drink without working three weeks”
とのジョークも存在するほど。
限られた財布で客人に楽しんでもらおうと
お店の人とやり取りをするうちに、
メニューに出ておらず、でもおいしくて安いものが
多数存在することが判ってきました。
3年間の勤務のうち、最後の1年は
アジア通貨危機と重なり多忙となりましたが、
要人面談に際しては、まず面談自体をセット、
落ち着いたところで夕食のメニュー「作成」に没頭。
「大変な会議の後に美味しい料理が食べられるので
頑張れる。」と政府高官から言われたのは嬉しかったです。
■念願のパリへ
本当にパリに転勤。
フランス料理を堪能するうちに、
単に味自体が優れているだけでなく、
ブランド力が高いことを実感しました。
国内で低迷する日本酒、焼酎にとっても
学ぶべき点が多いのではないか、
日本酒、焼酎を
市場の大きいアメリカや中国に輸出するだけでなく、
パリで日本酒、焼酎にブランド力を付加する努力が
長期的に重要ではないか、等々真剣に思うに至ります。
自分の本業でもないし、
且つ誰にも頼まれていないのに、
気がつけば、洋食器メーカー・ベルナルドの
パリ中心部のショールームで
日本酒、焼酎と洋食器のマリアージュイベントを
プロデュースしていました。
ほぼ同時期、偶然にも私と同じ思想で
パリでの展開に注力されていたのが、
あの獺祭(だっさい)の櫻井博志社長。
でも少なくとも当時、
櫻井社長や私のように考える人は
日本では圧倒的少数派でした・・・・
■國酒プロジェクト
サラリーマンの宿命、楽しかったパリから強制送還。
気がつけば日本酒がライフワークのような感じで、
モナコの王室やインドでの
日本酒プロモーションのお手伝いをしていました。
インドの件は日本で少し報道され、
「これは誰のアイデアか?」と側近にご下問したのが
古川国家戦略担当大臣。
すぐさま古川大臣本人から私宛てに電話があり
「自分は酒は弱いが、実は前から日本酒を以て
海外に売り込む戦略を作りたいと思っていた。
佐藤、頼む。」と。
私からは「焼酎を含めた國酒でやりましょう。」と提言、
かくして「國酒プロジェクト」の幕を切ったのです。
金融庁での仕事はそのままなので、多忙を極めましたが、
仕事はスピードが命、
電話からちょうど一カ月後に
古川大臣から「國酒プロジェクト」立ち上げを公表。
公表文書の中で日本酒、焼酎を
「地域発・日本再生の救世主」、
「21 世紀の異文化との架け橋」
と自信をもって位置付けたのは、
磐田税務署長、シンガポール、パリの経験無くしては
あり得ません。
■名古屋での今後
またまたサラリーマンの宿命で、
「國酒プロジェクト」開始から3カ月半で
名古屋大学に転勤することとなりました。
研究テーマは何でもいいですと言われてビックリ。
取りあえず東海エリアの人も酒も知らないので
時間の許す限りあちこち訪問していたところ、
國酒を切り口に新種の産学官連携モデルを
打ちたててもいいかなと着想。
これが本人の予想を超えて反響があったので、
名城大学等の先生と組んで
「東海4県21世紀國酒研究会」を立ち上げて
しまいました。
早いもので名古屋大学での残りの任期も1年と少し。
今後も発想を限りなく柔軟に行い、
自分らしい活動にまい進したいと思っています。

201305

5月例会 講演レポート 
   テーマ「オグリズム 今日から人生が変わる黄金ルール」
   講師 ネッツトヨタ名古屋株式会社
      代表取締役社長 小栗成男氏
 NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成25年5月9日(木)   
          会場  ローズコートホテル   
■比叡山の荒行で学んだこと
私は学生時代、またアメリカ研修での経験から
いろんなことを学びました。
その一部と、トヨタ自動車と全国のトヨタ販売店向けに
研修教材として共同開発した「店頭即決術」の一部を
本にまとめたのが
「オグリズム-今日から人生が変わる黄金ルール」です。
私は、大学2年に上がるときに
体育会自動車部からゴルフ部へ転部しました。
そのゴルフ部を通じて、
出逢った大津新一さんにとても気に入っていただきました。
「お前をゴルフで日本一のプレーヤーにして、やるから」
といっていただいたのです。
その言葉をいただいてから1年。
俺はこのままでは日本一になれないな。
どうしたらいいだろう?と思い、友だちに相談したのです。
そこで、比叡山の「千日回峰行」という
荒行の話を聞きました。
よし、それだと思い、一人で比叡山に向かったのです。
天台宗の僧侶、内海阿闍梨という方に会いに行きました。
11月でしたが、
初雪が降った比叡山はとても寒かったのを覚えています。
「ゴルフで日本一になりたい。精神修行をさせてください」
という私の話に、「お前、覚悟はいいか?」と聞かれ、
「はい」「じゃ、来週から来い」というわけで、
修行が始まったわけです。
夜中の3時から、修行は始まります。
一人の修行僧の後について、
一晩中、比叡山の中を歩き続けるのです。
初日は何とか終わりました。
ところが何日か経過した時に、その修行僧が
「私の後ろからついてくるのでは、修行にならないから、
今日から10メートル離れて歩け」というのです。
山中ですから真っ暗で、前が見えない。
事件が起きたのがその翌日でした。
夜中の2時頃に、
落ち武者達が怒号とともに目の前に現れたのです。
もちろん妄想なのですが、
本当にドラマで見るような血を流し、
髷が垂れ落ちた落ち武者が何百人と迫って来たのです。
その後も、朝まで歩き続けたのですが、
あまりの恐怖で、もう俺は限界だと。
このままいったら恐怖で気がふれるという
心理状態になりました。
しばらくして内海阿闍梨さんに泣きながら、
「もう、帰してください」と訴えたのです。
そこで私は
「貴様っ!、男が一旦言ったことを、何ごとだっ!」と
ド叱られました。
ただ、私としては、
恐くて、それどころじゃなかったのです。
そのあと、
阿闍梨さんのところに、挨拶に行き、許していただのです。
ただ、修行を予定期間より短縮したこと、
そのときに「決めたことは必ずやり遂げろ!」と言われたことが、
今でも私の中にずっと鮮明に残っています。
そのことが
「自分がやると決めたことは絶対にやり抜く」という
教訓になりました。
■地上最強の商人、ビジャンとの出会い
私がこの世で最大限、感動した話をしたいと思います。
映画プリティ・ウーマンで有名になった
ハリウッドのロデオドライブにビジャンという
ブランドの店があります。
ビジャンは、世界で一番高級なブティックの
オーナーです(故人)。
私の宝物であり、オグリズムの原点になった本があります。
オグ・マンディーノが書いた「地上最強の商人」
という本です。
ビジャンは、私の心の中の「地上最強の商人」といえます。
なぜ地上最強の商人かと申し上げますと、
ビジャンとの出会いが私の人生を大きく変えたからです。
私は2000年にアメリカでのプログラムを終え、
日本に帰国した翌年、研修でアメリカに行きました。  
 
そこで高級ブランドが並ぶロデオドライブで
ビジャンの店を見つけたのです。
ちょっと入ってやれという感じでドアを開けました。
そこには180センチくらい身長がある
ブロンドの綺麗な女性が2人座っていました。
私を頭の先からつま先まで「じろっ~」と見下すのです。
小さなキーホルダーが20万もするお店です。
しばらくして、
マネージアという品の良い女性が出てこられました。
何かお探しのものがあればご案内しますが、
いかがでしょうか?といわれて、
高いなと思いながらも、
あとには引けないものですから階段を上がって行ったのです。
そこには、
クリントンやヒラリー、著名人の写真がたくさん並んでいる。
ところが、2階に上がったら商品がないのです。
商品の棚を開けると値段もついていない、
いかにも高そうな商品が並んでいました。
でも、そこまでしていただいたら、
何か買わないといけないなと。
そのときは、ネクタイくらいだったらと思い、
1本購入したわけです。
これが最初の出会いだったわけですが、
そのときビジャンはいませんでした。
その後、アメリカに行き、
店を訪れたときに、ビジャン本人がいたのです。
びっくりすることに、
あの世界一のビジャンですら物腰が柔らかい。
このことが、勉強になりました。
いずれ金を稼いで、
こんなすごい店でお金のことを気にせずに買い物をしたい
という夢を描きました。
そのとき私はビジャンに質問をしたのです。
「なぜ、そんなに成功したのか?」
彼はこう言いました。
私は、一気に成功したわけじゃない。
私はイスラエル人で、正直言って、
最初は英語も話をすることができなかった。
そこからのスタートだったが、
自分でポリシー持っていたことは、
自分の目の前に会った人には、絶対に全精力で接していた。
その結果に過ぎない。
私は、すごいなと思いました。
私が4回目くらいに行った時、
シャツを欲しいなと思っていたのです。
ところがシャツに体を合わせると、袖が長い。
どれくらいの時間で袖を直せるのかと
ビジャンに聞いたら1時間くらいかかると。
1時間して戻ってきたら、
申し訳ないけれど、まだできていないというわけです。
すぐ日本に帰らないといけないので時間がないというと、
じゃあ、あと10分だけ時間をくれというわけです。
ところが10分して、店に戻ったら、まだできていなかった。
今、ラッピングしているという。
また、いい加減なことをいっていると思ったので、
「もう待てない、もういい、帰るっ!」といって
帰ろうとしたのです。
すると、彼は
必死に私の手をつかんで、
2分くらい歩いたところに連れて行かれました。
そこは5、6人の白髪の紳士な人たちが
裁縫をやっている部屋でした。
そうしたら、
本当に今ラッピングをやっているところだったのです。
正直言って、彼にとって、
シャツ1枚なんて、大したことはない。
日本から来て、
それほど高い買い物をするわけでもないような人間に
差別なく接する彼の姿勢に感動しました。
もうひとつだけ感動したことがあります。
あるとき、店にいったとき
クロコダイルのジャンパーがあったのです。
高そうだし、買う気はなかった。
すると、ぱっと私の横に来て、
「気に入った?」と彼が聞くのです。
「気に入ったのなら、今日、持って帰ってくれ。
お金はいつでもいい」というわけです。
車を売っていて、こんなこと、私は言えません。
すごいことです。
これが、彼が苦労しながら成功してきた商売の極意
なのかなと思いました。
今までの経験から学んだことを活かして
これからも、一所懸命、ビジネスを頑張って行きたいと
思っています。

201302

2月例会 講演レポート 
   テーマ 「名古屋伝統芸能の歴史と旧町名を語る」
   講師 南山大学 人文学部 
      教授 安田 文吉氏 
 NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
          開催日 平成25年2月21日(木)  
          会場  札幌かに本家・栄中央店   
■家康の政策、政経分離 ~経済活動の拠点、名古屋
森零さん監督の名古屋城物語という映画があります。
その中で、なぜ徳川家康が名古屋市を作ったか
という話を私がしています。
家康は政経分離を考えたからです。
室町幕府の失敗は
都の中に、もう一つ政治政府を作ったことにあります。
二重支配になってしまう。
家康は、政治経済を分離し、
政治は江戸、経済は名古屋とした。
名古屋は日本の真ん中にある。
そうすると
経済活動をするには、もってこいだったわけです。
経済活動の拠点として、
三男の徳川秀忠は、二代将軍で江戸へ。
四男の松平忠吉を初代の尾張藩主にします。
その後、忠吉が亡くなると、
九男の徳川義直が継いだわけです。
名古屋が経済活動の拠点であるということを、
知らしめるためには、何かシンボルがいる。
そのシンボルが金の鯱です。
徳川幕府は、こんなに経済力があるぞ
ということを見せようとしたわけです。
徳川家康は戦う前から、
戦いの後のことを考えて、町づくりも考えました。
私が代表を務めている
「NPO法人 清須越400年事業ネットワーク」が作った
名古屋の地図があります。
これは、
名古屋城ができる前の名古屋を推定して作ったものです。
清洲越し、直前、慶長12年頃の町の地図、
清洲城下の推定図などを見てもらうと、
開けている名古屋の様子がわかります。
地図を見ると、
熱田から金山のあたりまで海だったことがわかります。
熱田台地、あるいは名古屋台地といわれる場所がありますが、
その一番高いところに名古屋城があります。
その後ろ側は湿地帯。
清須の向こうは海だったわけです。
近くには新川があって、非常に水没しやすいところ
だったのです。
人が住むとなると、石垣を組んで、地面を高くして
住まないといけない。
そういうこともあって家康は清洲越しをしたわけです。
経済活動に、どういう町がいいかと考えると、
江戸は江戸城を中心に、同心円状の町が発展しています。
名古屋は碁盤割。
碁盤割の町に商人とか職人を住まわせました。
その南側と東側に下級武士が住む。
何かあったときは、
碁盤割の町を、まずは下級武士で守ろう
ということだったわけです。
その外側にはお寺を造りました。
なぜ寺を造ったのか?
お寺には霊がいるから、人は、たたりを恐れる。
信仰心も強い。
だから、
家康はお寺を碁盤割の外側に造って敵の侵入を防ごう
と考えたわけです。
■家康の政策を受け継いだ尾張藩第7代藩主 徳川宗春
家康は慶長5年2月、
「貞観政要(じょうがんせいよう)」を印刷し、配り、
こうやって政治をやるんだということを考えていました。
家康の考えを一番きちんと受け継いでやったのが
尾張藩第7代藩主 徳川宗春です。
宗春は、自分の政策を
「温知政要(おんちせいよう)」という本にしました。
経済政策に関し、
享保の改革を行った徳川吉宗の質素倹約策に対して、
宗春は反対の政策。
皆が元気になることが大事だということで、
名古屋での芝居を認めました。
歌舞伎というのは江戸時代では一番人気の高い娯楽でした。
年間で130以上の公演という記録が残っています。
遊郭は富士見原、西小路、葛町に3つ作りました。
芝居小屋や遊郭を造るには、腕の良い職人がいる。
そこで、いろんなモノ作りの人が集まってきました。
商人や職人の懐具合がとても良くなってきた
ということがいえます。
ただ、農民は懐具合が豊かになっていない。
そこで宗春は、
地場産業の保護育成と、販路の拡大をしたわけです。
それによって農民も豊かになりました。
しかも、税金を増やさなかった。
皆が豊かになると、良いものを買うようになる。
そうすると職人が腕を磨いて良いものを作るようになる。
これが名古屋のモノ作りの原動力になっているのです。
宗春は家康がやったことをさらに発展させたといえます。
そんな名古屋の歴史や土地の特徴を表しているのが
旧町名です。
ところが、
昭和49年くらいに新町名に変わってしまいました。
名古屋地区を活性化するためには、旧町名を復活させる。
これが私の理想です。
番号ではだめなのです。
住人が、愛着や親しみを感じるような
ところでないといけない。
私が思うのは、
町内会は、旧町名でやっていただきたい。
そういうことを徐々にやることで、
町に親しみを持ってもらう。
そして、最後には、町名変更をする
というのがひとつの方法ではないかと思っています。

201301

1月例会 講演レポート 
   テーマ 「久屋公園を一体とした“みんなのテレビ塔”」
   講師 名古屋観光コンベンションビューロー理事長 
       名古屋テレビ塔(株)取締役社長 大澤 和宏氏 
NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成25年1月18日(金)  
          会場   ローズコートホテル   
平成24年5月22日に
東京スカイツリーが開業しましたが、
その事業スキームは、名古屋発です。
タワー事業は決して、儲かる商売ではありません。
全国の20のタワーで
全日本タワー協議会を結成して諸活動を進めていますが、
タワー単体では赤字が多いのが実態です。
なぜかというと、
どこのタワーも収益スペースがものすごく狭いからです。
観光事業以外の事業を入れ、
かつ足元に人が集まる仕掛けをしないと
タワーの運営維持はできないのです。
名古屋の他の事業はテレビ放送事業ですが、
東京スカイツリーも同じです。
間もなく東京タワーにある地上デジタル放送送信機能は
全社揃って東京スカイツリーに移ります。
東京スカイツリーの建っている街は、
観光事業から遠い存在の街でしたが、
墨田区が中心となって地域開発計画をつくり、
東京ソラマチという新しい街を開発をし、
そこに沢山の人を集め、
そのうちの約10%の人を
タワーに呼び込む仕掛けをしたのです。
これはちょうど
名古屋市の戦災復興の都市計画の中で、
久屋大通という100メートル道路を造り、
そこに多くの人に来ていただいて、
テレビ塔に呼び込んだという仕掛けと同じです。
大阪の通天閣もそうです。
明治時代に世界で有名な建物をモデルとして建て
博覧会を行った街が新世界としとて残りました。
今でも新世界に集まる人達に支えられているのが
通天閣です。
このようにタワーの足元というのは、
タワーにとって命なのです。
名古屋は全国初ということが得意な街です。
例えば、放送でいえば、
ラジオの申請をしたのも名古屋がトップ。
民間放送のJOAR(中部日本放送)、
FM放送のFM愛知も認可はトップです。
名古屋の街づくりでいえば、
名古屋は2年前に開府400年を迎えました。
江戸時代に近代的都市「名古屋」が誕生し
以降、明治、大正、昭和のそれぞれの時代に
都市計画を推進してきました。
太平洋戦争では、
東京に次ぐ爆弾投下量(原子爆弾を除く)でしたが、
実際の死者、負傷者、家屋の損傷は非常に少なかった。
これは戦前に、
都市計画を活かした防空対策をやっていたからです。
戦災復興政策は、
名古屋が全国で最初に立ち上げました。
国の復興政策計画が発表される前に、
名古屋は発表したことは有名な話です。
市内の幹線道路計画が明確に打ち出され、
市内にあった墓地が平和公園に移されたのです。
名古屋の都市計画はいまだに全国から評価が高いです。
その中心が久屋大通と若宮大通。
2本の100メートル道路です。
当時は、こんなに広い道路を造って、
飛行場を造るのかといわれるほど
かなりの批判もありましたが、
これらは防災道路なのです。
久屋大通は、南北に走っていますが、
中区側がビジネス街、東側が住宅地、
その間を防災道路として通したわけです。
そういう意味では
完全な防災意識を持った都市計画だといえます。
その道路上の真ん中に、テレビ塔を建設したのです。
しかも民間施設として。
道路上に民間施設を造ることは、法的にも極めて難しい。
今も変わりませんが。
このため、高度な政治判断も含めて、
名古屋の官・財・市民が一体となって造られたのです。
ですから
テレビ塔の敷地は
名古屋市土地の道路と公園をお借りしていますが、
今でも厳しい借地条件となっています。
これは、
戦災で身も心もボロボロになるほど
名古屋市民の元気がない。
名古屋城天守閣も燃えてしまった。
そういう中で、
なんとか元気を取り戻そうという気概が、
テレビ塔の建設をするエネルギになったのではないか
と思います。
昭和26年、
日本でテレビジョン放送を開始する旨の国会決議がなされ、
それ以降、全国でいろんな動きが始まりました。
昭和28年、
東京ではNHK、日本テレビ、TBSの送信場所が
バラバラにスタート。
名古屋では、
放送局によって送信場所が異なると
受信者の受信アンテナが何本か必要になり、
非常に不合理だということで、
計画段階からタワー一本化を検討し、
誕生したのが名古屋テレビ塔です。
東京は名古屋の動きを見て、
名古屋テレビ塔が開業した4年後に東京タワーが
誕生しました。
名古屋テレビ塔は、
放送事業者(NHK,CBC)と
名古屋テレビ塔株式会社(以下当社という)とが
塔体資産を分割保有しています。
当社は、観光事業を進める会社として、
株主には愛知県・名古屋市、
そして多くの民間企業の皆さんが出資した会社です。
全国に例を見ない、
塔体資産と株主構成の持ち方になっています。
当社の特色としては、名古屋の観光事業の推進。
これが我々の基本的使命です。
放送事業は放送事業者自身が担当し、
施設運営を放送事業者と当社の共同運営となっていました。
ですから当社は、
テレビ放送が終わったら使命が終わるのではなく、
観光事業の推進
あるいは、街の賑わいづくりに貢献して行くことが、
最も重要な役割となっています。
名古屋の都心部にある久屋大通公園は、
都市の様々な機能を考えますと、本当に素晴らしい公園です。
大須から市役所にかけて約2㎞あまり、
名古屋駅に負けないだけのショッピングを
楽しんでいただけるゾーンです。
その間には愛知芸術文化センター、
NHK、東海テレビなど芸術・情報発信拠点があります。
また、国からも認定されている
全国でも珍しい立体公園「オアシス21」とつながり、
交通アクセスも、地下鉄、3本、
名鉄、バスターミナルもある名古屋駅に次ぐ、
交通の要所になっています。
ところが真ん中にバスターミナルがあり、
テレビ塔の北には、駐車場があり、
動線が切れてしまって、非常に使い勝手が悪い。
大通公園という名前も、有名なのは北海道です。
おそらく地元でも久屋大通公園というのは、
名前が通っていない。
かなりのお金をかけていながら、
現在は外から来ていただけない公園。
このあたりを考えなおしていく必要があります。
外から名古屋駅へ来た人にも
「久屋大通公園に寄って行こうよ」と
言ってもらえるようにならなくてはいけない。
「公園の新しい魅力創出」
それが栄地域にとって大きな課題です。
名古屋市内で観光だけを目的にした施設は
テレビ塔しかありません。
是非、テレビ塔の役割を活かして
観光名古屋の起爆剤にしていきたいと考えています。

2012年11月レポート

11月例会 講演レポート 
   テーマ 「原発による資本主義の崩壊」
   講師  一橋大学イノベーション研究センター特任教授 
       アリジェン製薬株式会社 代表取締役社長 所 源亮 氏 
NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成24年11月20日(火)  
          会場   札幌かに本家・栄中央店   
ラブロックがガイア理論の中で
「地球はひとつの生命体である」と言って、
妙に納得したと思います。
そこまで納得するのであれば、
宇宙もガイアであるという納得もごく自然のことです。
宇宙には生命がいないシーンとした状況ではなくて、
実は「宇宙も生命体である」というのが宇宙経済学なのです。
出発点は黒子ちゃんと白子ちゃんといわれています。
最初はL1、L2だったのが、ちょっと進化して
Le(地球を愛する生命:Love the earth生命)、
Lu(宇宙を愛する生命:Love the universe生命)
となったのです。
ところが、この話をしていると、
質問者も、どっちが、どっちかわからなくなってしまい、
大混乱を起こしてしまうので、
こういう言い方をやめて、黒子ちゃんと白子ちゃんにしたのです。
宇宙には、黒子ちゃんと白子ちゃんの種が
塵のように一杯、浮いている。
黒子ちゃんは、早くエネルギーを使う遺伝子です。
白子ちゃんは、あるがままの、エネルギーを使う。
遅いタイプのDNAと、速いタイプのDNAがあるのです。
そう考えると、我々は黒子ちゃんです。
黒子ちゃんの最大の目的は、エネルギーを速く食べ、
そして早く宇宙の塵に、もとの種の状態に戻ろう
という考え方です。
一方、柳の木とか、ライオン、象・・・
彼らは白子ちゃんDNAの方が多いわけです。
だからゆっくり、ゆっくりという考え。
どちらが正しいのかを考えても答えはでません。
宇宙から見れば、黒子ちゃんが正しい。
地球から見れば、白子ちゃんということになります。
私は原発反対といいながら、
車を乗っていたり、携帯したり、洋服を着たりしている。
これは、
自分が白子ちゃんだと信じて言っているわけですが、
実は、限りなく黒子ちゃん的生活をしていることに
なるわけです。
今、我々が何をやっているかというと、
イノベーション、イノベーション、イノベーション。
速く燃せ、もっと燃せ、効率良く燃せ、
ということをやっているのです。
原発がなくなったら経済が崩壊するというのは、
とんでもない経済的トンチンカンなミスです。
日本の産業を2つに分けると、素材系産業と非素材系産業。
これらの産業が使っているエネルギーのうち、
電気は18%くらいしかないのです。
製造業の原価の中で実際の18%の中の
何%が原子力なのかというと、
日本の原子力はピークで30%、
平均すると25%しかない。
ですから18%の4分の1です。
つまり、
製造原価の5%以上ということは絶対にないのです。
いろんなケースで見て、
1.5%を超える製造業はほとんどありません。
ですから
原子力発電がなくなっても1.5%しか影響がないのです。
また、こういうことを言っている人もいます。
化石燃料なんて危ない。
中近東に集中しているから危ない。
そんなに危ないとおっしゃるのであれば、
日本のエネルギーの使い方を見てみますと、
実に80%が化石燃料なのです。
電気が関係あるのは新幹線くらいで、
輸送に使っているエネルギーは全エネルギーの23%ですが、
全部、化石燃料です。
それから洋服、石油を原料にして、
これもエネルギー換算でいえば25%。
実際に電気をエネルギーとしてやっているのは
2割くらいしかないわけですから、
石油、化石燃料がなくなったら全部、原発でいこうとしても、
経済的に全く意味がないのです。
過去11、12年分の損益計算書を見てみますと、
原子力発電は、一基、100万キロW/h。
これを365日24時間動かしますから、
日本の稼働率が7割だとすると、
一基で1年間、普通に稼働して、
100万×0.7×365×24=60億キロW/h。
これでいくらかというと、
過去5年間の平均がキロW/h当たり、16円です。
産業用には10円で、一般家庭には20円くらい、平均して16円。
これを掛けますと、だいたい1000億です。
売上1000億、製造原価500億、売上総利益500億。
一般管理費と販売費が250億。
営業利益250億。
こういう数字になります。
ただ、ここで大きな問題があります。
30トンのゴミ。
核使用済み燃料。
このゴミの処理代が入っていないのです。
毎年30トンのゴミの処理代、これを穴埋めしないといけない。
ものすごく荒っぽい工事をして建物を作って、
管理費を0.1%くらいとると1トン、100万円です。
ただ、
100万円で受け入れてくれる自治体はゼロだと思います。
けれど100万円としたら、
100万円×10の6乗×10の6乗=1兆円。
30トンということは30兆円。
だから原発1基動かすたびに
最低でも30兆円、損をすることになります。
そこで今は、国民の税金で処分してください
ということになっている。
日本のGTPが550兆円くらいしかありませんから、
次の世代は絶対にお金がありません。
そうすると、自分の健康を犠牲にして払うことになる。
最初、食べ物の基準値は500ベクレルでしたが、
それはひどいということで、今は100ベクレルになっています。
水は10ベクレル。
アメリカの水の基準値は0.111ベクレルです。
日本はその100倍なのです。
いかにひどいかが解ります。
ガンマ線を外から7000ミリシーベルト受けると
100%死にます。
内部被爆を外部被爆の1000倍とすると
7ミリシーベルトを食べると終わりということです。
セシウムではどうやってやるのかというと、
0.00065で割ればいいのですが、だいたい2万シーベルト。
ですから、
20ベクレルのものを1年間食べると、定期預金は満杯。
どこに行こうと動く放射能ですから、
どこにも逃げられないのです。
セシウムのように骨の中に分布すると全身が放射能だらけ。
ところが、こういうことは誰も言ってくれないのです。
人は黒子ちゃんの種からDNAをひっぱったために、
どうも宇宙に早く帰りたいと思っているのかもしれませんが、
冷静に宇宙的観点から考えていくべきだろうと思います。

201210

10月例会 講演レポート 
   テーマ 「経営戦略―環境適応から環境創造へ―」
   講師  名城大学 経営学部
       教授 伊藤 賢次 氏 
NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成24年10月17日(水)  
          会場  ローズコートホテル   
■■企業を取り巻く経営環境の変化■■
経営戦略は、短期的ではなく、
どうしたら企業が5年、10年、30年と成長するのか
という成功の法則を明らかにすることが大事です。
経営戦略の大家、
愛知県出身で東京理科大学の教授の伊丹先生は、
経営戦略とは、
市場の中の組織としての活動と
長期的な基本設計図といっています。
近年における一番の成長産業は
コンビニだと私は思います。
あのちっぽけなコンビニが出たときに、
ここまで大きくなるなんてことは、
誰も思っていませんでした。
ところが、
すでに全国で5万店余りあって、
売上は4年前に百貨店を抜いています。
また、
宅配便や外食産業も非常に大きく成長しています。
一流企業といえども、
ちょっと長い目で見るとすごく大きく変化しています。
例えば、
旭化成の1950年から1995年の45年間の売上比率を見ると、
繊維の比率が、下がっています。
2010年では6.8%となっています。
石油化学、住宅建材の比率が高くなっています。
なぜ、こういうことが起きるのか?
どんな製品でもプロダクト・ライフサイクル
(一般に「PLC」と略称される)があるからです。
仮に旭化成が繊維にこだわっていたら
売上は今の6.8%しかなかったわけです。
ここから言えることは、
企業は長い目で見た場合に、
「新規事業に取り組まないといけない」ということです。
1955年から32年間の日本の企業ランキングで見てみます。
当時1位は東洋紡でした。
トヨタ自動車は、なんと74位です。
売上は東洋紡の10分の1です。
しかし、
32年後の1982年に、1位に踊りでたのはトヨタであり、
東洋紡は87位に落ちています。
売上高でいうとトヨタの約10分の1に下がっています。
それくらい大きな変化が起きているのです。
繊維業界全体で見ると、
この32年間で16.4倍伸びています。
これに比べて、自動車業界は750倍であり、
繊維業界の46倍も伸びているわけです。
「どこの業界に身を置くか」をよく考えないと、
自分は伸びていると思っていても、
経営環境は、がらっと変わってしまうのです。
企業が中長期的に発展するには、
経営環境の影響を強く受けます。
経営戦略は
「経営環境の中で考える」ことが重要である
ということです。
■■経営戦略の本質■■
経営戦略とは何かというと、その中核は2つあります。
「環境適応」と「自己革新」です。
環境適応も、適応ではなく、
逆に環境を創造していくことも可能です。
「環境創造」こそが、もっと優れた経営戦略といえます。
経営学で競争と言った場合、2つの競争があります。
「短期的な競争」と「長期的な競争」。
短期的な競争とは、表面的なの競争です。
しかし、
それを本質的な意味では、
それを作っている深層の競争、
つまり
「組織能力」がより大事なこととなります。
経営というのは、
開発から調達、生産、販売に至るまでの
「トータルなシステム」であり、
日常業務の流れ(「ビジネス・プロセス」)です。
この日常業務の流れこそが大事です。
これは「仕事の仕組み」です。
仕事の仕組みというのは、
いろんな会社を比較しますと、
それぞれ独自なやり方をしています。
こういった仕事の仕組みこそが、
実は、組織能力を決めているのです。
そして
その元にあるのは、「組織文化」だと私は考えています。
例えば、
トヨタ関係では、会議など、必ず「5分前集合」
(「5分前主義」)です。
5分前に出欠をとって、
全員が集まっていたら、その時点から会議が始まり、
5分前には終わります。
これはトヨタでは当たり前です。
でも、
必ずしも、よその会社では、これが当たり前ではない。
その組織のメンバーが“当たり前”と考えている
価値観や世界観及び行動規範から構成されるものが
「組織文化」です。
経営戦略には、3つの特質があります。
「変革性」「一貫性」「重点性」です。
この3つの特質は、長期的な視点であり、
変革を目指すものであり、
短期的な視点であったり、
現状の延長や手直しや修正などは経営戦略とは言いません。
経営戦略を考えるには、
まずビジョンがなければだめです。
ただし、
経営戦略は、(一般に複数の事業をもつ)
会社全体をどう成長させていくかということと、
あるひとつの事業について
市場の中でどう競争していくかという話とは、
分けて考えないといけません。
前者が「成長戦略」であり、
後者が「競争戦略」となります。
今、私が言ったビジョンというのは、
成長性の話です。
競争戦略は、
事業の種類やライフサイクル(PLC)によって
変わってきますので、
5年、10年と同じ戦略が有効であることは
あり得ないことです。
そうすると、
いくつかの事業を持つと、
その1つ1つの事業については競争戦略となりますが、
会社全体としては、
複数の事業をどう上手くやっていくかという
成長戦略が必要になるわけです。
■■戦略意思決定と「ばかな」と「なるほど」■■
最後に、「戦略的意思決定」ということと、
「ばかな」と「なるほど」という
2つの話をしたいと思います。
会社を長い目で見た場合、
乗るか反るかの大博打を打たないといけない時が
あるわけです。
そこで大きく成長するか、
そのまま伸びずに終わってしまうかの分岐点です。
このときに、
将来をどうするかを決めることが、
「戦略的意思決定」と言われるものです。
例えば、
ホンダが四輪にでるとき、
候補としては、アメリカ、東南アジア、
ヨーロッパの3つがありました。
皆が「東南アジアかヨーロッパがいいです」
と言っていた時に、
ホンダのトップはアメリカに行くんだと言った。
アメリカでトップにならなければ、
自社の目標である「世界一のオートメーカー」になれない
と判断したためです。
最近の例では、
武田薬品の海外企業の買収(買収金額1兆円以上)、
ソフトバンクによるアメリカの携帯会社の買収が
挙げられます。
もうひとつは、
「ばかな」と「なるほど」ということです。
ヤマト運輸の宅急便事業のように、
最初は誰が聞いても、
「ばかな、そんなこと止めろよ」
といわれるようなことでも、
5年経ち軌道に乗るようになると、
「なるほど!」と言われるようになる。
そうすると、多数の会社が一斉に参入してくる。
宅配便の場合には、
それまでガラガラだったのが、
35社が一斉に参入してきたのです。
こういう先を見据えたことが実は戦略であり、
経営なのです。
企業にとって一番いいのは「独占」です。
これをわかりやい言葉で言い換えると
「差別化」です。
経営戦略の本質は、
筋が通った上での、即ち合理性のある差別性です。
「合理性」と「差別性」を同時に持つことが
重要です。

201209

9月例会 講演レポート 
   テーマ 「地球温暖化と台風」
   講師  NHK名古屋放送局  
        気象予報士 植木 奈緒子 氏 
NAGOYA KEIEI KENKYUKAI  BUSINESS & CULTURE    
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          開催日 平成24年9月11日(火)  
      会場  料亭 蔦茂   
■地球温暖化が引き起こす様々な現象
ここ120年の中で、世界の気温が高くなってきています。
それによって、
世界中で、いろんな変化が起きてきています。
気象庁のデータでは、
この100年ほどで世界の気温が約0.7度上がっています。
100年で0.7度上がることを、
皆さんの体温で考えてみたいと思います。
平熱が36.5度だとしますと、
37.2度にまで、上がってしまうということです。
今、世界の気温は微熱くらい。
今世紀末、世界の気温は、
最大6.4度まで上がってしまうといわれています。
体温でいうと、42.9度。
大変な温度になるわけです。
では、地球温暖化の影響について見ていきます。
北極の氷の分布。
1979年と今の分布を、比べてみると、
北極の氷は半分くらい溶けてしまっている状態です。
ヒマラヤの氷河。
標高が高く万年雪なのですが、
1978年と今の様子では、かなり雪が少なくなっています。
少なくなってしまった雪が溶けて、
下に湖のように溜まっています。
水は低い方へ流れていきますので、最後には海に流れていきます。
その結果、海面上昇という影響もあります。
1993年から2003年までの10年間では、
3.1センチ海面上昇しています。
その一番、大きな原因は、熱膨張。
水は温まると膨らむ性質がありますので、
海水が温まることによって膨らみ、
海面上昇につながっていると考えられています。
その他にも、
氷河、氷帽、氷床が溶けていることが原因だといわれています。
氷河、氷帽、氷床というのは、全て陸の上の氷のことです。
海に浮かぶ海氷が溶けても、あまり海面上昇には関係ありません。
例えば、氷がたっぷり入ったアイスコーヒー。
時間がたって、氷が溶けたからといって、
アイスコーヒーがあふれ出ることはありません。
別のところの氷を
アイスコーヒーの中に入れるとあふれてしまいます。
海面上昇が2003年までの10年間で、3.1センチだったものが、
今世紀、なんと59センチ上昇すると言われています。
台風にも影響がでています。
平成23年の台風12号。
のろのろとした台風で、紀伊半島に大きな被害を与えました。
今まで雨量が2000ミリを超えたことは、
ほとんどなかったのですが、
三重県大台ケ原では2400ミリを超えたところもあります。
大雨になった要因として、
1つは台風の動きがとても遅かったことが挙げられます。
もうひとつは、
強風域は1200キロもある大型の台風だったこと。
そのため、
紀伊半島まで1000キロ以上離れていたにも関わらず、
接近のだいぶ前から台風の雨雲がかかり続け、
長い時間、雨が降りました。
台風のエネルギーは、水蒸気です。
お風呂のお湯が温かければ、温かいほど、
水蒸気が発生します。
それと同じように、
水蒸気をたっぷり含んでいる海の温度が
高ければ、高いほど、
それだけ台風は動きが活発になるわけです。
地球温暖化で海の温度が上がってきている。
それだけ台風の勢力も強くなるわけです。
東海沖の海水温が今世紀末には、
2度上がってしまうという予測結果が出ています。
現在、台湾と日本の海水温の差が2度。
100年後に東海沖の海水温が
今の台湾並の温度になる予測結果があります。
そうすると、
台風の勢力を保ったまま、
東海沖にまで、接近してくるということになる。
温暖化によって、
今後、強い台風が増える恐れがあると気象庁は発表しています。
■地球温暖化の原因と今後の取り組み
地球温暖化の原因として、
ほぼ確実であるといわれているのが、「温室効果ガス」です。
私は、それにプラスして都市化の影響もあるだろうと思っています。
温室効果ガスには、
二酸化炭素、メタン、フロンなどがあります。
この温室効果ガスは、
地球の外を取り巻く、空気中に元々含まれているものなのです。
太陽の光が当たって、
地球の地面付近が熱をもらって暖かくなる。
その熱が宇宙に逃げていきます。
雲や温室効果ガスが、その逃げていく熱を吸収して、
地面に戻してくれる効果を「温室効果」といいます。
この温室効果があるお陰で
地球の平均気温というのが約14度に保たれているわけです。
もし、温室効果ガスや雲がなければ、
-19度という気温になってしまいます。
問題はこの温室効果ガスが、増えすぎたことにあるのです。
ガスはどんどんと熱を吸収するので、
空気が温まり過ぎてしまう。
温室効果ガスの6割が二酸化炭素。
そこでこの二酸化炭素を減らすことで、
地球温暖化が止められるのではないかと考えられています。
では、この二酸化炭素をどうすれば減らせるのか?
自然の中には、二酸化炭素を吸収するものがあります。
例えば、植物、海。
ただ、二酸化炭素の吸収には限度があります。
そこで植物を増やす。
省エネをする。
低炭素社会への行動として
無駄なエネルギーを使わないようにする。
省エネ家電や、LED照明の使用。
車のアイドリングストップ。
というようなことが挙げられるかと思います。
今、天気や地球の恵みを
エネルギーに換える試みも活発になっています。
水力発電とか、地熱発電、雪や氷の熱を利用する、
牛の糞などで電気を作るバイオマス発電、
太陽光発電、風力発電、
波の力や潮の力を使って発電する方法などがあります
2100年までの温暖化の予測を見てみます。
国立環境研究所や東大気候システムセンター、
海洋研究開発機構などが出したシナリオですが、
特に北極付近が温暖化になる割合が大きくなっています。
永久凍土や氷が溶けた影響、
ヒマラヤ山脈の万年雪が溶けている影響が色濃くでています。
このシミュレーションの方法は、
B1、B2、A1B・・・いくつかあります。
A1Bで2100年で二酸化炭素が720ppm出てしまった場合、
今後、世界の気温が最大で4度上がってしまう
という場合のシナリオです。
私たちは、これから温室効果ガスを増やせば、増やすほど、
このシナリオに近づいていく。
減らせば、減らすほど、
一番下のB1のシナリオに近づいていくわけです。
B1の場合は、最高で2.4度、平均で1.8度。
このままエネルギーを使い続けると、平均4度の未来。
地球にやさしい生活に変えていくと1.8度で食い止められる未来。
この2つの選択肢があります。
今、ちょうど私たちは分岐点に立っています。
どちらの道に進むかは、私たち次第なのです。